ゲド戦記4「帰還」について3

「わたしたちは予備の人間なんだろうか、とテナーは思った。予備の人間であるというのは、どういうことなんだろう?」


という文章について、「予備の人間」とはどういうことなのか、よくわからなかったので、考えてみました。


まず、原文を参照してみますと、
「Are we spared? she thought. How is it we are spared?」
となっています。
「spare」という単語を辞書で調べてみますと、「助命する」という意味があります。(「リーダーズ英和辞典」)
用例として「I may meet you again if I am spared.」
「((神のご加護で))命があったらまた会えよう」
というふうに載っていました。


それを参考とするならば、「Are we spared?」は、文法、よく知りませんけれど「受身形」というやつなんじゃないかと思うので、「わたしたちは命をたすけられている?」つまり「生かされているのかしら?」という意味なのかな? と。
「神」だか何だか、とにかく「大きな力」に「生かされている」。
この場合、その「生かしてくれている」存在は、「竜」も、あてはまるのかもしれません。テナーとゲドは「竜」に命を救われたので。


つまり、「私たちは生かされているのかしら。どういう理由から、生かされてるんだろう?」「私たちが生かされているのは、何か理由があってのことではないだろうか? 生と死、生き延びるものと死ぬもの、それを分けるものは何? 生き残ることができるのは、なすべきこと、なすべき役割があるから、だから神さま(だか運命だか竜だか何だか)は、命をたすけてくれているんじゃないかしら」
といったことなんじゃないかな、と。
「予備の人間」とは、「なんらかの理由で、生きることをゆるされているもの」であり、人は、「なぜ自分は生かされているのか」考える必要がある、ということなのかもしれないな、と思いました。


たとえば、竜にたすけられる、なんていうファンタジックなことは起きないにしても、「危ないところをたすかった」なんていうことは世の中にザラにあるわけですし、自分が被害者になってもおかしくない犯罪は、ひんぱんに起きているわけですから。そんななかで、自分が殺されずに生きていることの奇跡を考えれば、そこに何か理由が、「何かできることがあるはずだ」と思えてくるような気がします。


だから「予備の人間」というのは、「スペア人間」というような、「代わりはいくらでもいる」といったような意味ではない、と、思いたいのですが…。
このあたり、「spare(スペア)」という単語の解釈を、私が解釈したふうに解釈してしまっていいのか、いまいち自信がないので、なんともいえません。


とりあえず、ゲド戦記4「帰還」については、思ったことを全部書こうと思ったらキリがないので、このあたりにします。
この作品はフェミニズムの面で論じられることが多く、それはたぶん間違いではないのだろう、とは思います。しかし、「フェミニズム」という「狭いところ」だけに着目すると、この作品を読み誤るのではないか? という気もします。
男とか女とか、人間だとか竜だとかもとびこえて、もっと「大いなる自由な風のなか」でなければ「私の魂は息ができない」と、作者は言ってるんじゃないかしらん、と、そんなふうに思いました。竜も人間ももとは同じだったというのなら、いつか人間も飛んでいくことができるんでしょう。