ゲド戦記4「帰還」について2

「アルハは教えられてたの、力を持つためには自分も他人も犠牲にしなくちゃいけないって。取引きよ、何かを手にするためには、まず与えよってね。それが間違いだとはわたしにも言えない。でも、わたしの魂はそんな狭いところでは息ができないの」(本文より引用)


ル=グウィンゲド戦記「帰還」について、もう少し、思ったことをいくつか。
魔法を扱ったファンタジーのなかには、魔法を使うにも、それ相応の「対価」が必要、という考え方のものがあります。「何かの犠牲なしには何かを手に入れることはできない」という考え方に基づくものです。
べつに、それが悪いことだと批判するつもりはありません。それはそれで、現実的というか、リアリティがあって、いいと思います。
けれど、「魔法」って、ほんとうにそういうものなのでしょうか?
もし、何かを犠牲にすることなく何かを手に入れられるとしたら、それこそが「ほんとうの魔法」なのでは?


もともと、ゲド戦記の世界の中での魔法は、「世界のバランスが崩れるから、慎重に使わなければならない」「できれば使わないほうがいい」といったものでした。
それはやっぱり、「対価(犠牲)」を要求する魔法、といえます。パンを空中から取り出せば、どこかの食卓からパンが消えているのです。
「魔法使い」たちの「魔法」は常に、「世界を壊してしまう」危険のある魔法でした。大きな魔法ほど、大きく世界を壊してしまう危険性があり、大魔法使いほど、めったに魔法は使えませんでした。
そんな「不自由」な力でしかない魔法。あっても使えない力なら、なくてもいいのでは?
という疑問は、第一巻のころから、つきまとってはいたわけです。


もし、誰もが誰かの犠牲になることなく幸せに暮らすことのできる世界が生まれたとしたら?
それこそが「魔法の世界」といえるかもしれません。
しかし「ゲド戦記」の「魔法使い」たちは、世界を「壊す」ことはできても、「創る」ことはできません。そういう「理想の世界」を、創ることができるとしたらそれは、たぶん、誰もが持っている、「地味な力」を寄せ集めていくしかないのでは? という気がします。
魔法一発ドカーンで、世界が地獄と化すことはあっても、パラダイスになるわけではないのです。


だからもう、魔法使いの魔法はいらない…。


ということなんだろうか? と、ちょっと思いました。


ゲド戦記のなかの「魔法」って、「科学」に近いんですよね。大きな魔法は、「核兵器」のようなものです。だからあんまり、気楽にドカンドカン使えないし、使ってもらっちゃ困るんですよね。
指輪物語」の「指輪」が、アメリカでは、「原子爆弾」の比喩だ、という読み方をする人が多かったそうですから、ゲドのもつ「魔法の力」も、やっぱりどうしても「捨て」なきゃいけなかったんじゃないかな…と、そんな気がします。