「ぼくを探しに」シェル・シルヴァスタイン


シェル・シルヴァスタインの「ぼくを探しに」
原題「The Missing Piece」
邦訳は講談社から 倉橋由美子:訳 で出ています。
百ページほどの絵本ですが、文章は1ページに数行しかないので、比較的すぐに読めてしまえます。英語はそんなに難しくはなく、また、絵を見れば、意味はだいたいわかります。初心者向けの絵本だと思います。
絵は、たいへんにシンプルで、黒の線一本で書かれた線画です。ストーリーもシンプルで、一部が欠けていて完全な「円」になれない主人公が、なくした欠片をさがしにゆく物語です。


「It was missing a peace.And it was not happy.」(本文より)
といった書き出しで始まる、この絵本。
全ページにわたって、主人公は、ただ「it」とのみ記され、名前も、性別もありません。
この物語は、「シンプルだからこそ、かえって意味が広がる」ことを狙った絵本、という感じがします。作者は、「いろんなふうに読める」ことを狙っているし、「いろんなふうに読めていい」と思っているのでは、と、そんな感じがして、なんだか、ロールシャッハテストのような絵本。
この物語を、どういうふうに読むかで、その人の性格やら、これまでの人生やらが、わかってしまいそう。
読む人ごとに、あるいは、読むたびごとに、ちがう答えがみつかるのは、結局のところ、絵本のなかではなく、自分のなかに答えがあるから、なのかもしれません。


私がこの絵本を読んで、少し思い出したのは、谷川俊太郎さんの「かなしみ」という詩。


「あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい」
谷川俊太郎詩集「これが私の優しさです」集英社文庫より引用)


そんなふうに始まる詩なのだけれど、それと、この絵本の始まりは、同じことを言っている、と思いました。

何か落とした、何かなくした、でもそれが何かわからない…だから悲しい
そういう感覚、思いは、万国共通、普遍のものなのかもしれませんね。


一神教キリスト教では、完全なもの「円」は、唯一、神だけだ、という考え方が根底にあると思うのと、アダムの肋骨からイヴをつくった、とされていることから、アダムがイヴをさがす物語…つまり、男性が自分にピッタリの女性をさがす物語、というふうに、最初、私は読みましたが、しかし、
たとえば、性別的特徴からみれば、凹である主人公は女性で、かけらが男性で、一度、ひとつになったかけらを、再び外にだすのは、子供を産んだ、ということにも解釈できます。まんまる状態=妊娠状態。子供というのは親から自立するものだから、と考えると、かけらと別れるのも納得がいきます。恋人、親子といえども個々の存在だ…と。
あるいは、ただたんに、男性とか女性とか関係なく、「完璧じゃなくていいよ、そのままでいいんだよ」という物語、とも読めます。
…正直、私はこの絵本を、つかみきることができません。まるで千の仮面をもつ絵本。どんどん、正体がわからなくなっていく感じです。
でも、それでいいのだ、とも思います。「完全に理解できて」しまったら、もうそれ以上、この絵本のなかに何かを探そうとはしないでしょう。
答えをみつけるたびに、その答えを捨てて、別の答えをさがす…
そうすることによって、この絵本を、ずうっと楽しむことができるように、人生も、そうやって楽しんでゆくものなのかな…などと、考えたりもしました。


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